熊本市立出水南中学校 校長 田中 慎一朗
中学生の女の子がいる。
その子は、母親がいる時に決まって、家に帰ると必ず一番初めにすることがある。
「ねぇ ママ。今日は、嬉しい話と悲しい話のどっちから聞きたい?」
母親は、とりあえず長くなるので、「短い方はどっち?」と微笑みながらその子に問いかける。短い方から聞いたところで、結局どちらも聞かされることを知っている。嬉しい話は、給食にハンバーグが出たとかであり、悲しい話は苦手な教科が一日2回もあったとか、そんなたわいも無い話である。
この話の中で、私が一番好きなところは、彼女は母親が自分の話を聞きたいに違いないと思っているというところである。話を聞いてもらうではなく話を聞かせてあげる。この親子にはそんな素敵な人間関係が存在する。
- 子どもの思考の作られ方
なぜ、そんな考え方をするのだろう?子どもと接して、そういったことを感じたことがある。我が子に対してもでもある。人生にとってマイナスな思考をする場面に出会った時、子どもを責めてはいけない。そもそもその思考は、環境が作ったものでもあるからである。もちろん、発達特性の部分でも影響はある。しかしながら、育ちの過程で子どもは物事の捉え方を習得する。
(人は言語を用いて思考する)
昔、海外で日本人学校の教員をしていた時の話である。その子の父親は日本人、母親はフィリピン人であった。日常の中でその子は父親と話す時は日本語を用い、母親と話す時はタガログ語を用い、家族3人で話す時は英語を用いた。3か国語操れることは羨ましい限りであるが、そうではなかった。その子が教えてくれたことだが、考える時に何語を用いればよいかわからなくなるらしい。自分自身の感情も言語化をすることによりラベリングされ、自分が今どういった気持ちなのかを理解することができる。単語をどれだけ知っているかという語彙力が思考に大きく影響するのは、そういった理由によるものである。私が担任したその子は、単語もだが、言語そのものも何を用いてよいかわからず、思考の深まりの部分で生きづらさを抱えていたのである。
(マイナス言語で育った子ども)
では、子どもはどこで言語を獲得するのであろう。それは、家庭である。例えば、「死ね」という言葉は、私は絶対に発さない。なぜなら、私の中にはそのような単語がないからである。「死ね」という単語を用いて会話をしたことがないから、どんな場面であってもその単語は出てこない。しかしながら、相手を非難する言葉であったり、どうせ自分なんてなど自分を卑下する親の言葉の中で育った子どもはどうだろう。単語として、そのようなマイナス言語をたくさん習得するに違いない。精神発達と共に、物事を考える際、子どもはそこで学んだ言語を用いて思考することになる。性格の一つはこのようにして形作られる。穏やかな家庭で育った子どもが、攻撃性を持たないのはそういった理由である。
- 雑談を大事にする
ということは、子どもとたくさん話すことが大事ということだ。多く話せばその分、いろんな言語を習得するし、考え方も学ぶ。深い話より、日頃の大人と子どもの雑談こそが、子供を育む大きな鍵となっている。冒頭の親子に話を戻すと、子は日常の雑談の中に、自分の親は自分の話を聞くことを嬉しいと感じているという安心感を得ているのである。そのような環境下では、素直に言語が入っていくだろう。子どもを育てるための一番大切なことは、子どもとたくさん話をすることである。
(子どもが生きている世界は子どもに話してもらわなければわからない)
日本人学校に出会った子は、両親の愛情を一身に受け、幸せな家庭で一見何の生きづらさも抱えていないように見えたがそうではなかった。結局、目の前の子どもがどのような世界を生きているかは当事者にしかわからないのである。
例えば、私が中学生と話す時は、私は自分の中学時代を思いかえしながらその時の自分の気持ちを胸に抱いて話す。「自分も中学時代があったから、中学生のことはわかる。」そう思っていたが、そうではない。私の時代には、スマホもなかった。だから、いじめっ子は、家のドアを開けてまで入ってこなかった。しかし今の子どもは違う。寝てる間でさえ、SNSで自分の悪口を言われているかも知れない。そのような環境の中で彼らは生きている。今の中学生がどのような世界で生きているかは、今の中学生に聞かなければわからないのである。
- おわりに 〜こどもまんなか社会とは〜
こどもまんなか社会とは、子どもの言うとおりに何でもする社会ではない。大人が子どもになって彼らに関わる社会でもない。こどもまんなか社会だからこそ、子どもにすべての責任を押し付けるのではなく大人は大人として、子どもに関わらなければならない。子どもに自己決定をさせることは重要だ。しかしながら、責任まで負わせようとする風潮が社会には存在することが私は気に入らない。子どもに自己決定をさせてよいから、ちゃんと大人が責任を取るべきである。こどもまんなか社会を作るためには、大人が大人としてきちんと子どもに向き合わなければならないのである。そのためには、彼らがどんな世界で生き、どんな生きづらさを抱えているか知らなければならない。そのために子ども対話するのである。そして、社会の創り手の一人として子どもを迎えるのである。
と書くと大げさな感じではあるが、冒頭の親子の姿が目指す姿である。母親は、娘の話をいつも聞いている。そして、ちゃんと母親として聞いている。そういった姿に私も学びながら、子どもを真ん中に据えた、彼らが「今」も「未来」も幸せでいれる社会を創っていきたい。
※前任校と今の勤務校のHPで子どもや保護者の悩みに動画で答えています。